乾山の器
乾山の器は魅力的です。
茶事を催す中で、ひと際華やかな乾山の器が一つあるだけで、お客様へ伝えたい世界観が表現しやすくなります。
桜尽くしの鉢に鯛の子と筍の炊き合わせに木の芽が添えてあるものを両手に抱え、茶室に持ち出すまでの廊下で、「春だな~」と心はウキウキしつつも穏やかな微笑みでお客様の前に持ち出します。
備前の器に同じものを盛り付けても渋くて好きな世界観ではありますが、この限られた時期にしか使えない器でお客様へ届けることができると喜びもひとしおですね。
乾山は器に定家詠花鳥和歌を取り入れた皿を作っています。
懐石を頂きながら歌を詠み交わした茶室の様子を想像しただけで羨ましくなりますね。
この辺りを触れたく令和5年6月出光美術館で行われた「琳派のやきもの」展の図録を下敷きに乾山について整理をしてみました。
京の都に息づく王朝美から花開いた琳派の芸術の始祖と仰がれる光悦や宗達、後代の光琳、江戸の抱一へと直接的な師弟関係ではない私淑によって受け継がれました。
高級呉服商・雁金屋は、後水尾天皇の皇后・東福門院の贔屓であった呉服商であり、その三男として生まれた乾山は、幼少のころから公家の王朝文化を身近に感じ、美しい衣装や図案に囲まれて育ち、京文化の粋を知り尽くした高い芸術的教養をもつ人物です。
乾山の興した乾山焼は和歌・能・漢詩といった文芸を主題とした独自のやきものとして絵画や書の美と融和する新たな陶芸の世界を開拓いたしました。
また、きらびやかな装飾性を有する作品の一方で、まるで水墨画のような静けさを美とする錆絵の作品も存在します。
古典的教養として必須であった和歌は王朝復古の機運にあった当時の歌壇の活動もあり江戸時代にも上層町衆の間で盛んに読み交わされていました。
それらを焼物へ表現して見せたのでしょう。
尾形 乾山(おがた けんざん)
寛文3年(1663) – 寛保 3年(1743)、
江戸時代の陶工、絵師。
諱は惟充。
通称は権平、新三郎。
号は深省、乾山、霊海、扶陸・逃禅、紫翠、尚古斎、陶隠、京兆逸民、華洛散人、習静堂など。
一般には窯名として用いた「乾山」の名で知られる。
6歳上の兄は尾形光琳で、貞享4年(1687)、父の遺言により、室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峯3つの屋敷と書籍・金銀などの諸道具を、光琳と折半で譲り受ける。
遊び人で派手好きで遺産を放蕩に費やした兄・光琳と対照的に、
乾山は莫大な遺産が手に入っても、内省的で書物を愛し隠遁を好み、
霊海・逃禅などと号して地味な生活を送る。
元禄2年(1689) 27歳
早くから隠遁の志が強かった乾山は父が没すると仁和寺門前の双ヶ岡「習静堂」に居を構え、参禅や学問に励む。
この仁和寺門前には野々村仁清が住んでおり、乾山は早くから光悦の孫の光甫や楽一入から手ほどきを受けていたこともあり、仁清から本格的に陶芸を学んだようだ。
京都盆地の北西部つまり洛外にあたる双ヶ岡は、中世は天皇の遊猟地であり、平安貴族たちの山荘地でした。また、吉田兼好が余生を過ごし徒然草を執筆場所としても知られています。
兼好の強い王朝文化の憧れは乾山の同種の憧れと重なる。
元禄12年(1699)37歳
かねてより尾形兄弟に目をかけていた二条綱平が京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えたため、ここに窯を開く。
その場所が都の北西(乾)の方角あたることから「乾山」と号し、出来上がった作品に記した。
乾山の父が経営していた呉服商の雁金屋と二条家と関係があったことが、光琳乾山兄弟と綱平を結びつける要素となる。
また、綱平の叔父 三宝院門跡高賢と兄弟が能を通じて知り合ったことも結びつきとなる。綱平(享保17年1732没)が亡くなるまで交際を続ける。
正徳2年(1712)50歳
京都市内の二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入北側)に移住し、多くの作品を手がけた。
作風は自由闊達な絵付けや洗練された中にある素朴な味わいに特徴があり、乾山が器を作り光琳がそこに絵を描いた兄弟合作の作品も多い。
二条へ転居した理由は、より生産性・流通性の高い場所で製作するためであったと考えられる。
およそ20年この地で活動する。
享保16年(1713)69歳
輪王寺宮公寛法親王の知遇を受け、江戸・入谷に移り住む。
元文2年(1737)9月から初冬にかけて下野国佐野で陶芸の指導を行う。
その後江戸に戻り、81歳で没する。
時世は「うきこともうれしき折も過ぎぬればただあけくれの夢ばかりなる」
墓所は泉妙院(京都市上京区)と善養寺(豊島区巣鴨)
乾山の名は2代、3代と受け継がれていった。ただし、それは血縁や師弟関係に基づき襲名されるのではなく、各々が自称したに過ぎない。
令和五年 和暦文月新月
※ 写真は令和5年6月出光美術館で行われた「琳派のやきもの」展の図録より